2008-10-30

社会学は役に立つか?

社会学に対して勉強を始める前から思った点がある。
それは社会学は役に立つのか?ということ。

ここで取り上げたいのは、以前の記事のメディアとしての電話で書いた「役に立つかもしれない」という言葉である。

「役に立つかもしれない」というのは、社会学全般に言えることだと思う。
それは少しだけ恋愛に似ている。

恋愛は役に立つか?
無理矢理役に立つことを考えると、例えば「恋をするとキレイになる!」とか、「彼女を人に見せびらかして優越感を得る」為に恋愛をするということが挙げられる。

ここで思うのは「これは恋愛なのか?」ということ。
恋愛とは、人間が他人に対して抱く情緒的で親密な関係を希求する感情であって、上に挙げた2つの例のような理由のために恋愛するのは、不純な動機と言える。

だが役に立つかもしれないという点で見れば、2つの例は一つの恋愛の役に立った効果として具体的なことである。
社会学も同じで、互いに惹かれあう恋人同士が恋愛していくように社会を考えることで、私たちと社会の関係がこれまでとは違ったものに見える可能性を開き、私たちが生きる社会が抱える問題や可能性に対する、より大きな視界を開いてくれるかもしれない。


冒頭にも書いたが、私は以前から社会学に対して「役に立たないのではないか?」と疑問を抱いていた。
実際に組織の活動の効率性を上げたり、利益を上げたり、福祉を向上させたりするような具体的な社会的に意味のあることだけを重視するのであれば社会学は「役に立たない」と私は思っていた。

しかし、役に立つ立たないの議論を、社会学に使われる概念にある「手段性」においてしか評価していないのがいけない。
手段性とは文字通り行為や関係が何かの目的のために手段として役に立つかどうかということだ。
だた、人間の社会には手段性とは異なる、そのこと自体に意味や価値が見出される行為や関係がある。
そのような行為や関係の属性を「即自的(コンサマトリー:consummatory)」という。
恋愛はコンサマトリーな行為や関係の代表である。

社会学を恋愛のようなコンサマトリーで評価するならば、地域の調査を続けた結果として「恋をするとキレイになる!」のような何か具体的な手段性から見た効果が得られ、「役に立つ」のかもしれない。

半導体の研究開発のような、いつ成果が出るか先が見えない研究として社会学で今我々がやっている研究をしていくのであれば、最終的には良い手段性から見た効果が得られるかもしれない。

大事なのはコンサマトリーな行為に満足し、手段性を得ることを忘れ、見失うこと。
これを常に念頭に置いて社会調査を行っていかなければ、せっかくの調査結果から何のフィードバックも得られず、学術的に動いているだけではない組織では「役に立たない」研究になってしまうだろう。


この考えの参考文献はコチラ↓

社会学の何に飛びついて行けばいいかわからない時は、この本で社会学の雰囲気を味わうことができるだろう。
私は「社会学は役に立つか?」という視点で選んだが、幸いだったようだ。


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